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批評空間を揺さぶる毒─『国立東京近代美術館 「日本の家」展 シンポジウム@青山ハウス』イベントレポート

東京国立近代美術館で開催されている「日本の家」展(会期:2017年7月19日〜10月29日)は、日本の住宅史およびそこで示された批評空間の系譜学について、多くの意見が寄せられ、反響を呼んでいる。この展覧会が何を示したのかをより深く考察するために、異なる意見をもつ方、また今回の展覧会に出品していない建築家にも集まっていただき、本展のキュレーターと監修者とともに公開シンポジウムが新建築社青山ハウスにおいて開催された。

【イベント概要】
■開催日時
2017年9月26日(火) 18:00 - 20:00
■参加者
進行:保坂健二朗(キュレーター)
村松伸(建築史家・東京大学生産技術研究所教授)
塚本由晴(建築家・東京工業大学教授)
川添善行(建築家・東京大学准教授)
平田晃久(建築家・京都大学准教授)
アーカイブ動画
https://www.facebook.com/ShinkenchikushaAoyamaHouse/videos/882679835222316/

 

<本稿は『新建築 住宅特集』2017年11月号に掲載された記事を転載したものです>

 

批評空間を揺さぶる毒

批評が批評を呼ぶ。それほど健全な社会はなかろう。

 

国立東京近代美術館で開催中の「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展は、戦後の日本の住宅に13の批評を語らせたことで好評を博している。この13の批評からさらなる批評を紡ぎだそうと、日暮れ過ぎの新建築社青山ハウスでシンポジウムが開催された。建築家の川添善之と平田晃久、建築史家の村松伸をゲストに、本展キュレーターの保坂健二朗とチーフ・アドバイザーの塚本由晴がホストとなり、笑いの中にも棘のある議論が繰り広げられた。

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まず断っておくと、建築史家の村松はもちろん、川添、平田の両名は本展覧会の出品作家ではない。しかし、だからといって「誰それが入っていない」とキュレーターの選考を論争の火種にしたり、建築史の知見を振りかざして13の批評空間の妥当性を云々したりといった、ありきたりな議論はまったくなかった。

むしろ村松は冒頭で儒学者・穂積以貫の言葉、「芸といふものは実と虚との皮膜の間にあるもの也」を引き、保坂と塚本による批評空間の系譜が、実に寄り過ぎることなく、創造性を遺憾なく発揮することで生まれたふたりの卓越した芸である、と評した。

 

では、何が争点となったのか。
そのひとつは、平田が投げかけた「住宅をあえて建築から切り分ける意味はあるのか?」という問いだった。

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展覧会でも掲示されているように篠原一男はかつて民家をキノコに例えた。周辺環境や人びとの生活と一体となって立ち上がってくるのが民家だと篠原は考えていた。しかし、住宅を建築と見なすと、住宅のそのような側面を捨象してしまう。そういう事態は避けたい。それが塚本の考えであり、あえて住宅を建築から距離あるものとして捉えている。だが、平田はそれに疑問を呈した。

小学校の近くに文房具屋ができる。それすらキノコのようなものではないか。

平田はそれを「地表現象」という言葉を使って説明し、住宅を特別視することに違和感を示した。建築家がコントロールしきれない周辺環境や文化といったものをいわば他者として受け容れ、それに呼応するかたちで建築をつくっていく。そのような地平は、住宅の枠組みに留めておかず、住宅を越えて広がっていくべきではないのか。平田のその指摘には確かに頷けるものがあった。

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川添もまた同様の感覚を「住宅が溶けていく時代」という言葉とともに表明した。例えば、民泊を前提とした住宅の設計では、住宅なのかホテルなのかは曖昧になっていく。つまり近代の施設概念を覆すような動きが住宅から生じているのだ。建築のあり方を住宅が変えていく時代が来るという見立てを川添は示した。

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本展覧会はもともと海外の観客に向けて企画されたものである。日本の建築家による住宅は海外でウケがいい。しかしそれは、「変な住宅に住む人たち」というエキゾチシズムによる評価でもある。

そうした眼差しへの抵抗として本展覧会は企てられ、批評空間というかたちでそれぞれの住宅の背後にある思想や社会的問題を提示した。実はその試みが、単に日本の家に対する理解を深めるだけではなく、西欧が先導してきた近代の建築概念への鋭い批評としても機能し得る。平田や川添の指摘からそのことに気づかされた。

 

他方で、日本に巡回した展覧会は、海外とは別の意図をもつはずである。村松は冒頭で本展覧会への好感を示したが、と同時に保坂や塚本が何のために批評空間や系譜学をもち出すのかがよく分からないとも批判した。

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この意図について「隠れた意図」という言葉でもって最後に塚本が触れた。それは、誤解を恐れずにいえば、賞味期限切れの批評空間を脇に置き、有効な批評空間を召喚し、未知の批評空間を新設することである。 例えば「閉鎖から開放へ」という批評空間の系譜は、もう賞味期限切れだと塚本は語る。 

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この批評空間に関して展覧会では、伊東豊雄坂本一成のふたりの建築家が、内と外の対比という課題に対して、申し合わせたかのように足並み揃えて作品を変えていくさまを展示している。

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内と外の対比は、これまで実に多くの建築家が言及してきたところである。だが、それをたったふたりの建築家に託し、その並行関係を発見的に展示することで、内と外の対比を巡る批評空間の強度を浮き彫りにしている。ある意味で展示する側の作為が最も現れた箇所であり、「東工大色」が強いと見られる箇所のひとつでもある。しかしそこには、賞味期限切れというある種の毒が、塚本によって盛られているのである。13の批評空間は決して等価に並んでいるのではない。 

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ミシェル・フーコーは系譜学を私たちの前提を揺さぶるものとして思い描いた。

 私たちが前提とすることの系譜を辿ることで、むしろそこに必然性はなく、偶然の重なりでしかないことを露わにする。したがって、批評空間の系譜学とは、批評空間にお墨付きを与えるためのものではなく、それらの取捨選択を促し、批評空間を活性化させるためのものだ。 だが、それには既存の批評空間を揺さぶる毒となる視点が必要である。秋の夜に現れた3人の論客もまた、そのような毒としてあった。展覧会に別の視点をもたらし、新たな批評空間の始まりの予感を生んだ。

(林憲吾/東京大学生産技術研究所講師)

 

 

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